2011年3月11日、この日は夜勤のアルバイト明けで昼間は東京の自宅で寝ていた。
昼過ぎに大きな揺れを感じて飛び起きて外に出た。
電柱がグワングワン揺れていた。
この揺れ方、震源地は東京か?と思ってニュースを見たら実家のある東北だった。
僕はすぐ母親に電話した。
繋がった。
母親は「大丈夫かい?」とただ一言だけ言って電話は切れてしまった。
ただただ逃げ惑っている様子だけが電話越しからは伺えた。
そこから3日間、実家と連絡が取れなかった。
この3日間はもう一生味わいたくない。
僕の心に余裕など無かった。
インターネットでは憶測やデマ、真実もあるかな。
様々な情報が流れ続け、絶対に大丈夫なんて言葉が意味を無くした。
震災2日目にSNSで福島の友人から『狐火、新曲はまだか?』というメッセージを受けた。
被災地に励まされた。
自分に出来る事が音楽で良いのか迷っていた。
こんな時に何かの役に立つのかと。
でも、不謹慎なんて言っていられない。
『狐火、新曲はまだか?』
それだけで十分だった。
東京も原発の事故を受けて計画停電で町は暗かった震災2日目の夜。
最悪を想定したうえでの希望を曲にした。
出来ればもう二度と、一生こんな曲作りたくない
心だけ逃げる事が出来たらどれほど楽だったか。
僕はこの時に自分の知名度を恨んだ。
僕がもっと有名だったらと。
僕の声は車の排気音にさえかき消されてしまう。
僕はこの日から6月まで週に1曲、福島に関する曲を動画サイトにアップロードし続けた。
それは時に政治的であったり、原発や放射能に関してであったりしたので賛否両論は勿論あった。
辛かった。
誰が好きこのんでこんな曲を作るか。
僕だってこんな賛否のある事を曲にしたくない。
でも、生まれ育った場所で起きた事だから。
これを無視して、この先を続けるという表現は自分にはどうしても出来なかった。
少し落ち着いた頃に福島に行ってみた。
僕が学生の頃、良く考え事をしに行っていた福島県いわき市の新舞子も津波でかたちを失っていた。
ただなぜか良く座ってリリックを描いていたベンチは昔のままそこにあった。
そして、春になった。
僕の4枚目となるアルバムのリリースが迫っていた。
震災の影響もあり発売を延期するかという話もあったけれど、このタイミングでリリースに踏み切った。