2008年の年明け、僕は頭を抱えていた。
なぜなら東京で通用すると思っていた自分達の音楽が全然通用しなかったからだ。
一緒に福島から上京してくれた仲間も帰郷してしまった。
最後は笑顔というわけでは無く、皆どこか思い詰めた表情をしていた。
上京して来たばかりの頃は笑顔で降り立った上野駅も皆を見送ったその日は違って見えた。
1人になり、ため息をつきながら缶ビールを購入し、ため息とともに飲みながら上野公園を歩いた。
僕だけ東京に残ったのはあと1本だけ東京でライブがあったからだ。
でも、その先は何もない。
2本目の缶ビールを購入し、また公園を歩き出す。
東京で音楽をやってみたくて就職した会社を辞めた事をアメリカのオレゴン州に居た父に伝えに行って怒られて帰って来た事を思い出した。
あの日、帰国した成田からそのまま渋谷に行ってみた。
蒸し暑い渋谷で絶対にこの選択は間違っていないと自分に言い聞かせた。
ただ、その選択すら全て最初から僕は間違っていたのかなと2本目の缶ビールを飲みながら思った。
だって、東京にはスキルやセンスやオーラやヴィジュアル等々あげだしたらキリの無いくらいに上には上がいて、東京じゃ僕が武器だと思っていたものが全く通用しなかったんだから。
あんなに仲良く一緒にラップしていた仲間も最後は皆笑っていなかったんだから。
自分には最初から多分何もなかったんだから。
次のライブで最後にしようと思った。
ただ、既存のソロ曲はあるにしても僕は自信を失っていて既存曲をライブでやる気がどうしても起きなかった。
かと言って新曲を作る気力も無かった。
それはとても辛い事だった。
だって、その全てが19才から25才までの6年間信じて積み上げて来たものだったのだから。
それを捨てるという事。
最後のライブなのだから今までの集大成で既存曲をやればいいという選択も確かにあるのだけれど、それでは絶対に後悔してしまうと思った。
何度も言いますが、それじゃダメだったんだから。
僕は高校生の時に聴いた『Grateful Days / Dragon Ash feat.Aco,Zeebra』に衝撃を受けてラップを始めた。
【東京生まれHIPHOP育ち、悪そうな奴はだいたい友達】というフレーズを聴いて、それまで聴いてきた日本の音楽には無かった圧倒的な自由を感じた。
当時山間の田舎町に住んでいた自分の真逆にあるような音楽に何か手の届かない憧れを抱いていた。
自分もあんな風になれたら良いと。
韻を踏み身の丈に合わない言葉を並べた。
僕はそもそも平凡な凡人だった。
そもそも東京生まれでもHIPHOP育ちでも無ければ悪そうな奴がだいたい友達でもなかった。
それを東京は身を持ってわからせてくれた。
福島の駅前の居酒屋で皆で東京に思いを馳せてワクワクしながら笑いながら飲んでいた頃に戻りたい気持ちもあった。
ライブまでの数日間、これまでの自分を振り返っているうちにあっという間にライブ当日を迎えていた。